朝。まだ少しぼーっとする意識のなか、いつものカフェでホットコーヒーを頼む。まだなにも考えたくない、脱力していたい、そんな気持ちを許してくれるようにゆったりとしたBGMが聴こえてくる。
不器用だけど丁寧な対応に定評のあるおじいちゃんスタッフがコーヒーを運んでくれる。お礼を言ったあとに、なんでもない会話を交わして微笑する。たぶん、おたがいにとってこの少しのコミュニケーションの時間が心に余白をつくるのだろう。淡白な外の景色とは打って変わって、あたたかい毛布のような時間が流れる。
そんな、穏やかな人との時間が、ぼくは大好きだ。
穏やかな人との時間
たんぽぽの綿毛のような穏やかな人とおなじ時間を過ごしているときは、ひとつひとつの感情をじんわりと感じることができて、丁寧に自分の気持ちを言葉にすることができる。なにをしてもいいんだよ、と両手を広げているような包容力と柔らかさを感じたりもして。
そこにはすこしの愛情と、大きめな余白があるのだと思う。穏やかな人のなかには「あなたが入るスペースもあるよ」という余白のようものが用意されていて、そこに飛び込んでもいいし、飛び込まなくてもいい。ちょっかいを出してもいいし、イタズラをしてもいい。優しく触れるだけでもいい。
そんな安心感のようなものは、その人のなかにある余白というか、こころの空きスペースがキチンと、いや、ゆるりと用意されていることによるものなのだと思う。
無愛想なわたしも、ぶっきらぼうなわたしも、難しいわたしも、扱いにくいわたしも、時折うれしくなってイタズラをしちゃうわたしでさえも、許してくれるようなキャパがあって、カンガルーのお母さん顔負けの包容力と温かさがある。
ゆとりのある時間は幸せのハードルを下げる
毎日を忙しく過ごしていると、どうしても余裕がなくなる。せわしなく過ぎる時間、こなさないといけないタスク、返さなきゃいけない連絡。夜遅くまでがんばって、明日も朝早くから仕事だったりもして、そんな日はたぶん、自分のなかにある「まだわたし頑張れるよゲージ」みたいなものがドンドン減っていって、忙殺されていく。
そうゆう日常のなかで、たまに穏やかでいられる時間がある。それは「この人」との時間かもしれないし、「ここ」での時間かもしれないんだけど、そんなひとときはきっと自分にとってすごく大切なのだろうなあ、とおもう。幸せのハードルが下がって、なにげない日常にも、ちいさな感情にもうれしさを感じられるようになったりもして。
ぼくはこれが極端に文章に出ちゃうもんで、切羽詰まって書いているとソワソワしたテンポの早い文章になっちゃうし、たのしい気持ちだと愉快な文章になっていくんだよね。今はとても穏やかで。そうやって、仕事にもプライベートにも、" 気の持ちよう " というものは影響してくるのかもなあって。
今日はどんな日になるかな。
おなじ一日なんてなくてさ、日々いろんなことを想いながら、いろんな人の顔を浮かべながら、目の前の現実と向き合って生きていたりするわけで。そんな今日という特別な一日を、今という特別な瞬間を、できるならば穏やかに、のんびりと、誰かの入れる余白を持ちつつ過ごせたらなあと思うのだ。
自分が穏やかでいられる時間を見つけて、穏やかでいられる人と過ごす瞬間を大切にして、しあわせな温度を抽出しながら生きていけたなら、それはそれは平凡で、当たり前で、幸せなわけです。
だいすきな音楽を聴いて河川敷でたそがれるような、そんな時間があってもいいのかもしれないね。